山梨県の子ども・若者の居場所情報サイト
やまねのさんぽみち
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ひなたぼっこ10周年記念原稿より
私の居場所 あの頃と今とこれからと
H.I
あの頃の居場所
私に居場所はなかった。あの頃、そう小学四年と五年生の二年間、私は不登校児だった。
今から数十年も前のことだ。当時は不登校児という言葉はまだ無く、登校拒否児と呼ばれた。
学校へ行きたくても行けない。朝、起きると気持ちが悪い。ツバをティッシュに出しては、部屋の片隅で膝を抱えてうずくまる毎日。母親は私が病気ではないかと心配した。私はそれ以上に将来が心配だった。
全校児童七百人のなかで、不登校児は私一人の時代に「ひなたぼっこ」のような居場所はなかった。
家庭が居場所
私が不登校児になると、母親は私の手を引いて学校へ行かせようとした。しかし私自身、気持ちは学校へ行きたいのに、身体は行けないのだ。辛い、葛藤の日々だった。
ところが、転機を迎えることになる。それはある日、ラジオから流れてきたインタビューを母親が聴いたことによる。それは、映画監督の羽仁進さんの娘さんが不登校だが、それでも構わない、問題ないという内容だったそうだ。母親は、あの羽仁さんのお嬢さんが不登校ならウチの息子も不登校で構わない、問題ないと「心底思った」らしい。それは子どもの未来を信じるということ。子ども自身を信じるということだった。そして、私に「もう学校へ行かなくても良い」と告げた。その瞬間から私は明るくなったのだと最近母は教えてくれた。この日を境に家庭が私の居場所になった。
学校へ戻る
不登校から脱出したのは、児童相談所に三週間ほど入所したことがきっかけだった。入所中に親に宛てて書いた手紙がここにある。私の母親が捨てられないで取っておいたものだ。中を見てみる。「自分は弱虫だ」と書いてある。また「早く帰りたい」「元気になる」とも書き込んであった。実際、児童相談所へ入所してきた子供たちは、親がいない子や万引きをした子、恐喝を繰り返してきた子たちがいた。その子たちと一緒に生活をして自分はカルチャーショックを受けたのだ。そして、六年生の新年度から学校へは戻った。
自分探し
学校へは戻ったが、不登校が解消されたわけではなかった。なぜなら、六年生の通知表を見てみると、年間38日も欠席していたのだ。つまり六年生も不登校をしていたことになる。そして中学、高校時代も学校は休みがちだった。学校へ戻ればそれで良いというわけではないのだ。自分はいったい何が得意なのか、能力なんてあるのか、まったく分からなかった。しかし、人間誰にでも「才能」つまり他の人の役に立つ「役割」があるのだという。自分の場合はその「役割」を発見するための自分探しの旅が長いこと続くことになる。
現在
その後、私はかなりの紆余曲折を経て、現在、工務店と建築設計事務所を経営している。そしてこの仕事が自分の「役割」なのかもしれないと最近思えるようになってきた。
時は過ぎて、不登校だった私も二児の父親になった。そして、長男が六年生になった時に、私はPTAの役員になってしまった。不登校のPTA副会長。学校へ行けなかった自分が、学校へ行くようになった。
さらに、役員をやった関係で、「ひなたぼっこ」の西岡さんと出会うことになる。そして「ひなたぼっこ」の親カフェに参加するようになって、辛かった「あの頃」を封印してきた自分に変化が訪れている。それは、不登校の子を持つお父さんやお母さんとお話しするようになったら、不思議なことに、自分の過去が癒されてきているのだ。
未来
「過去は変えられる」そう教えてくれたのは、銀座日本漢方研究所の斎藤一人さんだった。初めは何のことだかさっぱり分からなかった。過去の出来事を、もう一度やり直したり、消したりはできない。でも、思い出はどんなふうにでも変えられるそうだ。たとえば「自分は不登校児だった。でも、その経験があるから生徒の気持ちが分かる学校の先生になれた」などと思えれば、辛い過去もしあわせに変えられる。
だから大丈夫。今は不登校という現実の真っ只中でも、いつか必ず「過去を変えられる」
日が来ることを私は信じている。そして、もし自分というものの発見ができたら、素晴らしい未来が来ることになる。その日が来るまで、「ひなたぼっこ」と一緒に歩んで行こう。
ようこそ、未来の居場所へ。